2017年04月10日

平和な心(3)

         (前日の続き)
 自分の心は自分がよく知ってると言いますけれど、
我々の中で知っているように思うのは、それは感情
なんでしてね。肉体人間の中の我の一番上の部分、
氷山の一番見えてる部分しか分からない。心という
ものは、ずーっと奥に行きますと本来心があって、
本来心の奥は宇宙につながって、宇宙の奥は神様に
つながってる訳なんです。非常に距離が遠いように
思うけれども、キリストが言いますね、「汝らの内に
神あり」と。あれと一緒で、人間の奥の奥には神様と
同じ生命の流れがあるから、自分の中の神様と話を
しようと思ったら、自然に祈りに入っていけば神様の
声が聴こえるというか、神様がこう望んで
いらっしゃるんだな、人間の生命というのはこう進んで
行くもんなんだな、あるいは、世の中の運行と
いうものは本当の意味では公平なんだなということが
分かって来るんですね。あるいは、もっとはっきり
言ってしまえば、奥の体というものがそれはもう
分かってる訳なんです。  

 ですけれども、我々何十年か生きてまいりまして、
やっぱり、それなりの社会的な地位だとか今の立場
だとか、結婚してるとか結婚してないとか、色んな
此の世的なとらわれがあります。こだわりもあります。
 そのとらわれとかこだわりを無理にとってですね、
そうして、じゃあ皆同じ様に宗教の道へ入れといったって、
それは無理な話だから、そのこだわりはこだわりとして
それを一見大事にしながら、本当に子供みたいに
祈っていくと、道というのは開けていくものなんですね。

 だから、目の前の表面的な現われてきた環境だけに
把われていると、本当のことというのは分かりにくい。
 そして、その奥のことというのは本当に人間には
分からない色々なものがある訳なんです。例えば、
生死にしましても、何十年も健康でやっていけるだろうと
思った人が、ポックリ心臓で死んでしまったりとかですね、
こんなに一杯病気持ってる人がという人が、何十年も
生きちゃったり、そういうこともある訳です。だけれども、
それは神様の側から見ていれば、本当に大宇宙の中の
大きな流れの中の一滴として、人間の生命を器を使う。
 公平に使うということが大大大奥にはある訳
ですけれども、そこまでいかなくてもね、祈りの階段を
一歩づつ登るというのは、取り敢えず今の私をそのまま
正直に神様の前にさらけ出して、そして、「すいません
お願いします」と言ってお祈りをする、続けていく。
 そうすると、いつの間にか平静になって、心が平和に
なって静かになって、自分で力むのでもなく、まわりから
色々な援助が来たり、あるいは、人の為に祈る気持ちが
起こったり、親切にする気持ちが起こったり、
われしらず喜んだりする訳なんですよね。
                   (翌日に続く)

posted by wadatsumi at 06:59| 祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月09日

平和な心(2)

         (前日の続き)
 私は、祈りというのは、キリスト教などでは絶対者に
対する全託という風なことを申しますけれど、それは真実
ではありますけれども、この今生きてる人間が肉体人間の
ままで、じゃあ天父のごとく完全になれといったって、
そんなに完全になれる訳はないのですから、この在りの
まんまで、神様のみ心の中へ入れちゃう。任せてしまう。
 弱いまんまでいいんですね。

 不平不満を抱いているまんまでいいわけ。そうして、
生命の洗濯というものを本当にしていただいて。その為に
祈りのエレベーターに乗って、神様を呼んで、そうして、
自分の中の本来のほがらかな生命の元の根っこのところを
見つめてですね、その根っこのところというのはこれは
宇宙神とつながっておりますから、その宇宙神と
つながっているそういうところを見ていると、これは光明
そのものなんですから、光明そのものの自分を見る
ということにもなる訳なんです。


 宇宙神だけが光明じゃないわけね。自然の中も、それから
ありとあらゆる息しているものね。動物にしろ植物にしろ
すべて生命あるものね。それから、鉱物にしろ何にしろ、
我々からすると、言葉をもたない無機物という風なものでも、
ちゃんと守護する神様がいて、そうしてそれを導いていく、
そういう用命を持ってる神霊方がいる訳で、それは皆光明を
持ってる訳なんです。この宇宙の宇宙子というものは皆
光明を帯びてる。その光明を帯びてる同志が、奥の生命
でもって呼びかけ合って、大調和と愛と平和というものが
宇宙の根本の精神にもなり、それから秩序を保ってる。
 そういうものにもなってる訳です。

 ですが、その中で地球は、宇宙人がいつも幼ない兄弟と
申しておりますように、霊妙な光明波動というものが
なかなか届いてこない。
 人間というのは、自分の我でもって生きるから、自分が
光明そのものだなんて思えないけれども、しかし、ずーっと
日常の中で悩んだり苦しんだり悲しんだりしている中で、
自分をお任せして、そうして何か、本来の生命の中に自分を
入れていきますとね、そうしますと、自分が光であること、
人も光であること、それからこの自然全体の中に
とけ入ってる生命の一部であること、自分自身がですね。
 そういうことが分かる訳です。

 そうして、もっともっと奥を見つめていくと何が
分かるかというと、神様が愛であるということが
分かってくる訳ですね。

 例えば、世の中不公平なんで、才能がある人と無い人と
ある。それから、お金持ちな人とそうじゃない人とある。
 色んな環境の違いというものはあるけれども、しかし、
それは皆想いの現われなんですね。あるいは、人間の生命
というのは、何時も申しますように、今だけの生命
ではない。ずーっと前生、前々生からずーっと
生き通して来ている。そこで獲得してきた色々な環境の
末に、今の想いが重なって、今の環境が出来てきている
訳です。ですから、順境にしても逆境にしてもですね、
一番難しいのは、心を豊かにしてそうして愛深く、
自分にも愛深く人にも愛深く生きるということが
なかなか難しい訳です。

 ですけれども、自分にも人にも愛深く接していって、
そうして、不完全な自分ではあるけれども、それを一回
お願いしますといって神様の前に投げ出してしまった時に、
神様がよしと引き受けてですね、引き取ってね、光を
与えて、今までより以上に光を与えてですね。そうして
本当に、その時には心が平和になってくるわけ。

 祈りの根本というのはそうなんですけれども、
南無阿弥陀仏にしろ南無妙法蓮華経にしろですね、
主の祈りにしても他の祈りにしても、皆祈りという
ものは、そういう奥深いものをもってる訳
ですけれども。じゃあ南無阿弥陀仏といったって、
なかなか今先入観があって、極楽浄土のことしか
浮かんで来ないわけね。南無妙法蓮華経といったら、
日蓮宗のことしか浮かんで来ない。じゃあ日蓮宗だけ
信じていれば、他の所は全部駄目なのかというと、
そうじゃない。

 人間というのは、神様の生命の分かれですから、
皆神の子ですから、そういうものではない訳なんです。
 そういう所から見ますとね、生命の奥の祈りの
もっと奥の光明そのものに辿り着くその道筋というのは、
色々あっていいんだけれども、しかし、人間が本当に
この世に今現代に生きてる我々が、ああそうだなあと
納得ができる、つまり、理論的にも納得し共感が出来て、
そうして愛を呼び起こす祈りとしては、世界人類が
平和でありますようにという祈りが一番心を
落ち着かせる。静かにさせる祈りである。と私は思う
訳ですね。この光明心というものをずーっと散蒔いて
いきますと、自分自身も浄まっていく、まわりも
浄まっていく。別に宗教家になったりしなくっても、
要するに、これをやっていれば菩薩行をやっている様な
ことになる訳です。皆知らない内にやる訳ですね。

 いつも何時も、私は繰り返しこのところ申し上げて
いますけれども、何時の間にか心が落ち着いていく。
 何時の間にか心が静かになる。そういうことが大事
なんです。心を平和にしよう平和にしようと思って、
何か落ち着かせよう落ち着かせようとするとですね。
 例えば、胸がドキドキすると、ドキドキするのを
何とか治めなくちゃあと思うけれども治まらないと、
興奮したり緊張したりすると、ますます顔が赤らんだり
心臓がドキドキしたり、それと一緒でですね。
 平和にしよう平和にしようと思ってる間は、本当には
平和にならないんですね。

 今、自分の心は平和じゃないけれども、しかし、
すいません、このままでよろしくお願いしますと
言ってしまいますと、もう神様というのは、こちらから
見てて、もう完全に抱きとって愛して赦しとってですね、
そうして何時の間にか落ち着かせるように、気持ちを
持っていって下さる訳です。
            (翌日に続く)


posted by wadatsumi at 11:17| 祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月08日

平和な心(1)

 私共にとって、心を平和にするということはなかなか
出来ることではありません。それは何故かと申しますと、
一日の間にでも、色々悲しい事が起ったり、厭なことが
起ったり、悔しい事が起ったりして、心の中を平和に
保つということは、まことに難しい事だからであります。
 が、それをどういう風にすれば平和にできるかと
思って、人間というのは、例えば、芸術方面で、
美術を鑑賞したりあるいは書道をやったりお花をしたり、
色んな心を和ませる様なことをして、そうして、自分の
中の雑駁なものを取ろう取ろうと思って、一所懸命
やるんだけれども。でも、花に向かい合ってる時には
平和であっても、人間関係のギスギスした現場へ戻って
来ると、その平和であった穏やかであった心が元へ戻って
しまって、元の木阿弥になってしまってね、それでどうにも
ならなくなっちゃう。こんな事では、いくらお金を使って
お稽古事をやったって、何かもう自分の中のちょっとした
気慰みにしか過ぎないじゃないかという風な事で、そういう
人が溜息ついたりするのを聞いてますとですね、自分の
内の色んなゴタゴタをじゃあ何処へ捨てたらいいのかと
いうので、今、とっても悩んでる人が沢山いる訳ですね。

 例えば、山登りの好きな人など山に行くけれども、山の
頂上に立って、ああいい気持ちだなあ、人間は
小さいなあ、と思う。その想った瞬間はいいけれども、
又こっちへ帰って来て駄目になる。その繰り返し
なんです。それで、その慰めというか、もっともっと
人間のその生命(いのち)の萎びている状態をなんとか
しなきゃというので、何が出て来たかというと、文学が
出て来たり色々なものが出て来たりするけれども、結局
落ち着かない。落ち着かないというのは、人間の肉体
というのは何時も申しますように、我でもって汚れている。
そうして、色んな人の言うことなどが気になって、
自分の評判はどうだろうとか、自分の仕事は旨く
いくだろうかとか、そういう心配や不安、不平やら不満
などですね、色んなものがこう重なっておりみたいに
なってるもんだから、なかなか自分の心を落ち着ける
というところまでいかない訳なんです。

 それで、もちろん、レンブラントだとかミレーやゴヤ
だとか、東西の色んな良い芸術家がおりますけれど、
そういう人達、その天心を現わした人達というのは、
本当に導き手ではあっても、我々凡人がその人達と一緒の
心になれるかといったら、そうはいかない。
 それで、芸術なんかと同時に、慰め以上のものとして、
やっぱり、釈迦だとか孔子だとか、それからキリスト
だとかですね、色んな人が出て来て、そうして道を
説いてる。何を説いてるかというと、祈るということに
ついて説いてる訳です。
             (翌日に続く)

posted by wadatsumi at 14:27| 祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする