2017年04月18日

ゆるされている生命(いのち)(後半)

         (前半の続き)
 祈りの場というものは、人間が作る様に
思うけれども、本当は、人間というのは
見えないところで祈って祈って
祈り抜いてる。自分が意識しようと
しまいと、本体というのはずっと祈りの座
についていて、自分というのは神界にいて、
光になって祈ってる。神界にも自分自身が
いる訳ですから。そうして、御心と一体
になって、こっちに光を送ってる。こっち
からも光を送ってる。光の呼びかけ合い、
呼び合いをやってる訳です。呼び返しの
中で我々は生きてる訳なんですね。

 それは何の光かというと、ゆるしの光
なんですね。だから罰も何も無い。罰を
当てるとか当てないとか、そんな狭苦しい、
そんないい加減な世界じゃなくって、
その光のシャワーを浴びてる時というのは、
人間は本当に自由になってる。本当に神の
御心の中に入っている自分自身になってる。
それは、自分が意識しようとしまいと
そうなんです。そうやって人間というのは
生きているんですね。ちょうどこの我々の
肉体というものが、飲んだり食べたり
眠ったり、ある程度動いたりしないと、
この肉体の生命を保っていけないように、
我々の奥の複雑な霊妙な体というものは、
神様の光を受けていかないと生きて
いけない。

 これは随分と申し上げて来たこと
ですけれども、その光というものは何から
出来ているかというと、ゆるしから
出来てる訳ですね。あるいは愛から
出来てる訳です。
 愛とゆるしというのは何処から出てるか
というと、神様から分かれて来ている生命
である人間に対する、極まりの無い愛
なんですね。

 それは、我々がこの地球に降りて
来た時は、この地球を、神様の御心に
従って、神様の御心が顕現されるような、
そういう方針にするべく、我々はここに
降りて来て、やってた訳なんだけれども、
それが、霊性が働いている間はよかった
けれども、だんだん肉体を被っていく内に、
それを忘れちゃって、人が霊止にならなく
なって、つまり霊止まるという霊止(ひと)
の方を忘れて、人間の人(にん)という、
そっちの方の肉体の方の人だけが
残っちゃって。だけど消えては
いないんです。霊止というのはね。何故か
というと、霊が無ければ我々は生きて
いない訳ですから。ただそれが何か、
我(が)の世界の中に今はなっていて、
それが押し込められてる感じなんですね。
その押し込められてる、ちょっとしか顔を
覗かして今は生きていけない、息が
出来ない、その状態を何とか解きほどいて、
解き放ってやっていかないと、今はもう
地球も大変だし、自分自身も大変だし、
世界人類も大変だし、ひいては宇宙も
大変だしね。人間だけじゃない宇宙生命
そのものだって大変なんです。

 という時に、じゃあその全部の生命を
健やかに柔らかに、有るがままの有りの
ままの生命を宣り出そうというその祈り
というのは、「世界人類が平和で
ありますように、日本が平和であります
ように、私達の天命が完うされますように、
守護霊さま守護神さまありがとう
ございます」というあれなんですね。
あれで全部救われていく訳なんですね。
だから、あの祈りというものは、大変な
光明体なんです。その光明体を我々は
持ってるんです。それは唯単に、白光の
人があの祈りをするから救われるとか
そういう事ではなくて、元々の神様の
御心を祈り言にしたらああいうことになる。
そうして、その元々の神様の御心の光
そのものというのは、どんな人の中にも、
例えば無神論者の人の中にも、物質主義者
の人の中にもね、皆入ってる訳なんです。

 この世の中でいえば、信仰しない人は
救われないとか色々言うけれども、
そんなんじゃないんです。それだったら
もう小乗(しょうじょう)以下なんですね、
大乗(だいじょう)と小乗とあって、大乗
というのは勝れた乗り物という意味
だけれども、勝れた乗り物というのは
神様の大きな大きな大愛で、その愛と
ゆるしの光そのものなのです。
 その愛とゆるしからいうと、神様と
いうのはついぞ人間を責めた事がない。
 ついぞ人間を裁いたことがない。

 その裁いた事がない神様に、我々がこの
生命をこの心を捧げて生きていくことが
出来たら、その時に、神様の方の喜びも
大きくなるし、我々の方にいただいている
光だってますますその輝きを増して、この
世の中で成してゆくべき仕事ですね、肉体
の中で関わっていかなきゃならないこと、
悩まなければならないこと、
苦しまなければならないこと、あるいは
喜(よろこ)び事、そういうものも、何と
いいますか、スーッと来てスーッと
通り過ぎるんです。

 決して私の申し上げてる事は、ご利益の
宗教じゃないんです。人間が果たして
いかなきゃいけない務め、そうして、
どうしても果たしていかなきゃならない
宿題というものはあるんです。その為に、
肉体の時間が随分くっちゃって、もう
とてもじゃないけど五井先生どうにも
なりませんという人の嘆きを一杯聞きます
けれども。どうにもなりませんというのは、
肉体の我の方の叫びなんでして、その我
というのを溶かして、そして祈りの中へ
入り込んでしまうと、まだまだ、自分の
中に、永遠の生命としての人間の本来心が
そこに顔を覗かせてきまして、そうして、
その切羽つまってどうにもならないという
ところから反転して、今度は、大生命の
生命の道へスーッと入っていくんですね。

 そのスーッと入らせていく入らせて
いただく、それが「神様」という素直な
呼びかけであり、我々は一人として一度
として、罰っせられた事がない、責め
られたことがない、ずっとゆるされてる、
そういう存在なんだ生命なんだ、皆そう
なんだ、白光の人であろうとなかろうと、
世界人類が全部、どんな人であっても、
例えば、どんなに罪を犯したとこの世で
裁かれている人であっても、そうじゃない
人であってもね、皆光なんです。皆光明
ですから、そこでお互いを礼拝する。尊敬
する。そこで祈る、一緒に祈る、共に
祈る、一人で祈る。一人で祈っても共に
祈っても、そのひびきが世界中をかけ巡る。
 宇宙全体ひびき合う。

 そういう祈りですから、その祈りに
乗って宇宙神の御心の中にふっと入って
いくと、穏やかになって気が楽になって。
そうして、本当に余分なこと、思い煩い、
そういうものはね、肩の力を抜いて、
なるべくこう受けとめていったら、本当に
重荷というものも重くならないで軽く
なっていくもんだというと、これは私の
人間としての経験からも申し上げることが
できると思うんですね。

 重荷を重くするのが神様じゃない。
 重荷を軽くするのが神様なんです。
 ですから、今どんなに打ちひしがれてる人
でも、どんなにどうにもならないと
思ってる人でも、どうにもならないと
思ってることが、それが消えてゆく姿
なんですよね。

 どうにもならないというのは、だから、
それを押し込めるんじゃなくて、自分は
白光の教えを聞いてるのに何でこんなん
だろうと責めるんじゃなくて、あーそう
なんだ、消えてゆく姿なんだと思って、
そして、それを思いっきり出して、
泣くなら泣く、叫ぶなら叫ぶね、出して
消していただいて、そして又生命を
いただいてね、ゆるし放しの愛と平和の
元の神様というものに礼拝をし直して、
いただき直しの生命で、毎日を明るく
生きていくということが、一番我々が
この困難の中から救われていく大元の元に
なっていく訳なんです。

 そこを赤子のように信仰してゆきますと、
絶対に神様というのは我々をいやな所に
変な所に導いていかない。必要なものは
下さる。絶対に下さる。この生命という
ものを使って下さる時がある。その
使われ方というのはどういう使われ方を
するか分からないけれども、とに角、
神様と私は一体の生命であって、一筋の
生命であって、その一筋の生命というのは、
何の滞りもない朗らかな、何の障りもない
ものなんだということを確認できる時に、
我々というのは解き放たれていくんです。
その確認というか、それを肉体の我という
ものに染み込ませる。そうして、霊肉共に
救われていく、その祈りが、世界人類が
平和でありますようにという世界平和の
祈りなのでありまして、この光の祈り
というものは、益々これから色々な人に
覚えられていく祈りだと思いますけれども、
私共は益々謙虚になって、この祈りの
もとに、神様の愛を仰いですすんで
まいりたいと思います。
        昭和63年6月13日
           五井 昌久
posted by wadatsumi at 06:45| 祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする