2017年04月17日

ゆるされている生命(いのち)(前半)

 我々の生命といいますか、生命と言って
しまうと、皆さんの想像が何処へ行って
しまうか、色んな所へ行ってしまうと又
面倒なんですけれども。我々自身ですね。
この色んな性格を持ってる我々自身と
いうものを、そのままに、神様というのは
抱き取って、そして、ゆるして下さってる。

 特に我々のまわりですとね、日本など、
そんな事をすると罰が当たるよとか、
それも微風を残す為に穏やかに、そんな
事をしちゃいけないよと言うのならいい
けれども、そうじゃなくて、この頃
ずうっと世の中を見ておりますと、それは
先祖の祟りなんだとか、おまえの心がけが
悪いからだとかそういう何か、責めると
いいますかね、苛めると申しますか、
そういう形で強制しようとする。正して
いこうとする。自分の説いてる道が
一番正しいんだと言って、これを信じ
なければ駄目だという形で、我々の生命
というか心を向けさせようとする。

 だけれども、何か強制されてですね、
強いられて心をそこへ向けたとしても、
果たして人間の気持ちというものが素直に、
その人達の言う、何だか分かりません
けれど、その絶対者に向いていくか
というと、そういう風には人間の心と
いうのは造られていないんですね。

 人間の心というのは、唯ひたすらに
素直になりたいというか、神様の方へ
向いて行きたいというか、それが本来
なんですけれども、この世の中の憂さ、
辛いこと苦しいこと悲しいこと色んなこと
によって、素直になりたいけれども素直に
なれない状況というものが自分の中に生ま
れてきて、あるいはまわりに生まれてきて、
とてもじゃないけれどこの世の中は公平
だとは思えない。とてもじゃないけれど、
今自分が幸せな状態だとは言えない。と
いう風なことが色々生まれて来ますとね、
これをこちらへ向けばこうなるんだと
いうような、そういう強いられ方でその
絶対者に向けと言っても、向けられるもん
じゃないんですね。で、簡単に申し
ますとね、人間の心というものは本来自由
です。何故自由かというと、神様から
来ている我々は分生命なんですね。そして、
我々はどんな柵からも解き放たれて自由に
なりたいと思うけれども、もっともっと
我々の本体、本来の生命というものは、
何ものにも把われないものだから、この
世の中は表面的に何処かに属しているとか
誰かを養っていかなきゃいけないとか、
色々な義務というものを負ってはおります
けれど、そうじゃなくって、自分の中で
何ものも強いられるものがない、そして、
何ものからも自由である。それは何かと
いうと、元々神様そのものが、人間を
強いるとか何かをしなければ生かして
いかないとかですね、そういう類の方では
ないからなんですね。
 要するに、もう全くの無、無を突き
抜けた朗らかな心、それが神様の御心で
ありまして、その御心から分かれて来た
のが我々人間でありますから、そこで、
何をしないといけないとか、これをすると
罰が当たるとか当たらないとか、そういう
ことはないんですよね。

 つまり、冥加(みょうが)という言葉が
ありますけれども、生命冥加とか何だとか。
 冥加というのは何かというと、我々が
自覚しないところの神仏の加護なんですね。
神仏の守りなんです。つまり、自覚しない
ところのというのが、これが有り難い事
なんでしてね。
 神様というのはそうなんです。こちらが
眠ってる時でも忙しくって神様の事を
忘れている時でも、何でもずっと守ってる。
愛している。ゆるしている。神様の方
からは、一度も罰を当てようとしたことと
いうのはない訳なんです。今まで。どんな
歴史の中でも。
 じゃあ、何故戦争が起ったか、何故人間
と人間が争うのか、ね、ノアの大洪水は
先生あれは何だったんですか、色々
聞かれるでしょうけれど。それは、人間の
業というものが、何度も何度も掃除して
いかないといけないという、その節目
(ふしめ)節目というものがありまして、
歴史の中で、そして、じゃあ罰も何も
無いんだったら、何の為に人間が悩んで
苦しむのか、全くずっと平穏に平和に
やっていければいいのにと思うけれども。
つまり、人間の、何といいますかしら、
深さですね、神性。そういうものは何に
よって浄められるか高められるかというと、
人間の苦を通してのね、涙を通しての経験
によってだけ高められるんですね。

 苦労が一概に全部いいかというとそう
ではないけれども、そうじゃなくって、
それは何かというと、自己ではない他己の
生命、その人の立場その人の気持ち、
その人が何故そういうことを言ったか、
何故そんな風に怒ったか、自分に敵対
したかあるいは協力をしてくれたか、何故
あそこまで骨惜しみせずにあの人は生きる
ことが出来るんだろうかとか・・・。それは
やっぱり、相手の立場というものを
想いやるということがないと
やれないんですね。で、その想いやると
いうのは、神様でもない限り、自分の環境
以外の事、自分の価値観以外の事を分かる、
理解してね寄り添ってそして生きて祈って、
そうだなあと思いながら、共に生きる
というのはなかなか難しいんです。

 それをやろうと思うとね、やっぱり
どっかで苦しむ。例えば病気になる。父と
息子がうまいこといかないとかですね。
嫁と姑が駄目になってるとか。何か平和
じゃない、そういう状況というものを
通して、ああ本当に大変だなあー、これは
本当に一緒にやっていくということは大変
だなあー、家族というものは重たい
ものだなあーとか、色々なことを身に
染みる訳ですね。そうすると、自分の
身近でそういう風な人を見ると、ああ
あの人も大変だろうなあーと、同じような
経験を持てば、やっぱりその時に、
我しらずその心が分かって寄り添える訳
なんですね。その時に、その人の為に、
ああ本当にあの人が幸せになりますように、
天命が完うされますように、よろしく
お願いしますという風に言えるようになる。

 ところが、悲しいことに人間というのは、
自分の経験以外の事というのは、そういう
何か思い知らされる様な事がないと、他の
人の複雑な苦しい辛い気持ちというのは、
なかなか分からないように今なっている。

 で、それを曇らされてるのは、もちろん
大きく言えば、肉体の我だけれども、
その人その人の環境や、お金があれば
あるで、お金が無いなら無いで、あるにも
無いにも何か不足が出てくる、欲が出て
くる。色々なところで苦しむ。そういう
ものがある訳なんです。社会的な状況も
ある訳なんです。それは霊の生命から
いったら余分なものなんだけれども、
だけれども、余分なものだといって、
我々はそれを捨て去ることは出来ない訳
ですね。その中で生きていかなきゃ
いけないから。

 それではどうすれば良いかというと、
やはり祈りの中でね、祈りの時には、
自分が何億持ってるとか何とかいう、
それは祈りの場所じゃないですね。
祈りの時間というのは、神様と私の時間
なんですね。神様に私の心を開いて
いただく、そういう時間なんです。
 そうして、自分の本来心を解き放って
行って、そして、自分はこの世の中に
あっては、とてもじゃないけどたまらない
ような状況にあるけれども、だんだん解き
放って行くと。ああ自分の中にも朗らかな
ものがあるなあー、静かなものが
あるなあー、神様ありがとうございます、
と言える時に思える時に、神様と一致する
ことが出来る。だからそれは、
「世界人類が平和でありますように」
というあの祈り言の中に全部入ってる訳
ですね。教義にありますけれども、個人も
人類も真の救いを体得できるものである
というあの祈りですね。あの祈りを
唱える時に、我々というのは目には見え
ませんけれども、自分の中にある余分な
ものがその時パーッと掃除をされる訳
なんですね。で掃除をしたところで、
色々な経験を積んでいって、そして色々な
場所で、例えば、支部じゃなくったって
集会じゃなくったって、宗教的なものを
離れたってね。色んな人に会って色んな
立場の人の話を聞くことがあるかも
しれない。悩みを聞くことがあるかも
知れない。そういう時に、どれだけ、
祈りの場じゃない所で、そういうことを
無になって聞けるかということ、やっぱり
それが大事なんですね。
           (後半へ続く)

posted by wadatsumi at 06:43| 祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする