心のながれについて(後半)

(前半の続き)
 人間の生命というのは、神様の霊的な
そういう健やかなところからの流れが
来ないと止まっちゃうんです。生命と
いうのはね、神様の分かれだから。だから、
神様の方で、この人間を何かの形で
まだまだ生かして、器として動かしてゆか
なきゃと思うかぎり、我々は死にたいと
想ったって生きていかなきゃいけない。
 死ぬことを許されないわけなんですね。
 霊界移行をかってにできないように
なっている。


 例えば、お金がない、明日からどう
しようという所までいっても、そこで、
あれっと思うところで道が開けてくる。
 神様なんだから、お金でも何でも自分の
思うままに湧かせることが出来るんじゃ
ないかとか、色々あるんですけれどもね。
 ただ人間の生命というものは前生も
前々生も生きてここにこうして存在して
おりますから、色んな借金がえしが
ありますね。その借金返しを済ませると
いうのは大変なことなんです。何が大変か
といったら、人間にはまず欲が
あるんですね。欲が絡んで人間関係が
拗れるとかというのは、これは一番
やっかいな訳ね。

 例えば、前の世の中で喧嘩別れして、
もう絶交だとかあるいは生命のやりとりを
やったとかね。あんまり穏やかではない話
だけれども、そういう相手ともう一回、
守護の神霊が後でくっつけて、それで
何とかこの世の中でしようと思ったって、
相手が猛烈な金持ちでこっちがそれ程お金
持ってないなんていう、そういう極端な
環境の中で合わせたとしたら、これは
なかなかねー。僻み根性というんですかね。
 例えば、片っぽが一千万持ってる、
片っぽは五十万位しか持ってない。
 五十万対一千万じゃね。この世の中で
パッと見はですね、一千万の方が多いから、
五十万の方は萎縮しちゃうわけね。

 ですけれど、その五十万をどう生かすか
なんですね。今手許にあるものをどう
生かすか、自分の生命をどう生かすか、ね。
 それによってお金というのは増えもするし
減りもするんです。その一千万というのは、
私から言わせますとね、つまり、その人の
努力の賜物でもあるかもしれないけれども、
前の世の中からずっと積善をしましてね、
陰徳積んで貯金を増やして来て、それで
現われてきた環境の中の一千万かも
しれない。そうしますと、その一千万の
上にあぐらをかくと、一千万なんてお金は
たちまちに消えてなくなる。

 なくなった時にどうするかというのは、
その人の心の現われになる訳なんです。

 そこで本心を輝き出させるという
ことがこれは並大抵の事じゃないんです。
 人間生きていかなきゃいけませんので、
なかなかそれが大変なんですけれども、
でも出来るだけ素直にね、任せ切るなんて
いうことはなかなか出来ることじゃない
けれども、でも、「すいませんよろしく
お願いします」と言ってしまって、祈って
祈って祈っていきますとね、そうすると
いつの間にか、ああこういうお金が
入ってきたなあとか、ああこういう人に
会って助けられることになったなあとか、
そういう何か援助がね、まわりについて
くるんですよね。その辺が、自分には
一千万あるから大丈夫だと思ってあぐらを
かいてしまって何にもしない人。しない人
というのは、いわゆる心やさしくまわりに
対しても自分に対しても気配りをしない人。
 それでこの世の中を渡ろうとしてしまう。
 欲で渡ろうとしてしまうと、これが一番
駄目なことなんですね。

 私に言わせれば、さっき言ったように、
人間の生命というのは神様の分生命(わけ
いのち)ですから、神様の光を一瞬でも
滞らせちゃったら、これは生きて
いけないんです。人間というのは。

 だから、器としてどういう風に用いら
れるか分からないけれども、その用い方は
皆違うんだけれども、しかし、この人間は
まだこの世に用があるという場合は絶対に
御用済みにならない。今日目覚めて、
そして生きてるということがわかったら、
あーこれは生かして下さってるんだ、
生きてるんじゃない、生かして
下すってるんだと。

 だから、自分がどういう風に器となって
いくか分からないけれども、全身でですね、
お任せします。宜敷くお願いしますと
言って、守護霊さん守護神さんに
言い続けてごらんなさい。あるいは、
五井先生に言い続けてごらんなさい。そう
すると、実際に、食べる為に着る為に
あるいは住む為にね、仕事でもお金でも
入ってきますよ。肉体を養うにはね。

 何故かといったら、霊の生命だけじゃ
この世の中はやっていけないから、この
世の中で、神様の為に働かせる為に、
神様が必要であれば生かしていくという
ことは、肉体を養っていかないと生かして
ゆけない訳だから。そうすると、この人間
には何が必要であるか何が必要でないかと
いうのは、向こうの方でよくご存知です
から、そこで、絶対に自分が生かされて
いくんだという、そういうことですね。


 私は何にも取柄がなかったけれども、
とに角任せてしまったね。そうして、
何もかもゼロ以下になって、それでも、
人間というのは神様が養なって下さるから
生きてゆけると、その位の素直さだけ
持てた。そうしたら、貧乏にもならずに
何とかこの世の中生きて、子供も授かって
孫も授かってゆけた。その時その時、私は
こうして下さいと言って望みはしなかっ
たんですね。色んな夢とか希望とか
いうのは別にして、是非ともこうならなく
ては困りますという風には望まなかった。
 そうすると、自分が想い描くよりも
もっと以上のものを神様は与えて
下すった。そういうことなんです。


 つまり、自分の本心の中へ、自分の
本心の中へというのは、神様の心の中へ
ですね。その心の中に一致して、一致
させて祈り言をいってゆくと、世界人類が
平和でありますようにとずっと
祈りつづけてゆくと、そこで神様と
いうのは、その一人一人の人間にとって
一番大事なものを下さる訳なんです。
 ですから、そこを信じて私共は
世界平和の祈りを成し続けてゆきたいと
思いますし、又成し続けていらっしゃる
ように、私はこちらから光を送り続けて
まいりたいと思っています。
     昭和63年6月13日(月)
         五井 昌久