心のながれについて(前半)

 我々が毎日誰よりも親しく付き合って
いるものというのは、考えてみますと、
心ではないでしょうか。
 朝起きて、さわやかに目覚めることが
出来たとか、あるいは、ちょっと
睡眠不足で体がだるいなあとか、
そういうことを感じる。覚知して、
そしてくたびれているにしろ何にしろ、
起き上がるというのは、それはやはり
気持ちの働き、心の働きであります。

 我々はよく自問自答なんてことを
申しますけれども、自分に問うて
自分に答えるというのは、毎日毎日
自分で無意識でもやっている訳ですね。
 自分で考えて、ああお茶を飲みたい、
誰かに会いたい、こういう予定がある、
というのはそれは記憶ということも
あるけれども、それをしたいとかしたく
ないとか、面倒くさいなあとか疲れたなあ
とかということも含めて、それは自分の
気持ち、心と対応し続けながら、毎日
肉体を養っている訳であります。

 親兄弟というのは絆が深いとか申します
けれど、私なんかに言わせると、親兄弟
よりももっともっと自分の中で深い
関わり合いを持っているのは、自分の
そういう自分自身を覚知する心で
ありますね。ところが、いつも申します
ように、心というものはずっと奥の深い
ところで神様と繋がっている。

 神様の世界なんていうと、この世と
あの世という遠いかけ離れたところ
のように思う。ある宗教の信者さんだと、
極楽に行くとか地獄に墜ちるとか
墜ちないとかね、あるいは、聖書などで
ゲヘナの火とか何とかいうけれども、
しかし、そういう何か想い焦がれる
とかいう世界じゃなくて、厳然として、
あの世というか霊界と申しますか、
そういう所はある訳なんですね。

 向こうの世界とこっちの世界というのは
ずっと繋がっている。一つづきになって
いる。だから、霊界移行という言葉を申し
ますけど、それは実際に移っていくので
あります。我々自身がこの肉体を
脱ぎ捨てて、向こうの世界に移って、
そしてさらに自分の生命を豊かにしていく。
 そういう為の移り住み、それが霊界移行、
死なんだと。だから、この世の誕生と
向こうの往生というのは、これは二大祝賀
行事であると私がいつも申しますのは、
そういうことなんですね。

 この肉体は食べなきゃ我々は死にます。
 飢えれば大変なことになりますね。
 その為に働かなきゃなんない、お金を
得なきゃなんない。そういう想い煩いが
霊界に移行すると、一回こうすっと抜ける
もんだから、色々な痛みや煩いがないぶん、
余分なものがなくなって働きやすく
なるわけね。

 で、働きやすくなるというのはもっと
厳密にいいますと、これは素のまんまに
なる。素直になる。その人の本心が
現われてくる。そういうことなんですね。
 我々世界人類というのはですね、人間
一人一人というのは神様の御心の分かれ
なんです。生命の分かれなんですけれども、
その御心と心を一つにしていく、本当の
ところをいえばそうですね。それで
生きてる。神様の生命を貰って生きてる。

 生命を生き生きとさせる。心をひそめて
ずっと自分の心の流れをみていくと、
本心に連らなっているから、その
連らなっている自分自身というものが、
先程も申しました様に、非常に大きく深い
ものなんですね。そうしてその人間の心の
流れというものは、自分の中の例えば、
これが飲みたいとかあの人に会いたいとか、
そういう欲求とかいうものだけじゃなしに、
もっともっと深い深いところで繋がって
いて、実は、深いところから我々の肉体を
養なう、例えば、暑いとか寒いとか
そういう色々な欲求が出て来る訳ですね。

 今こうして世の中で生きる為の、必要に
応じたものがちょっちょっとこう出てくる
けれども、しかし、本当を言えば、
本来心の深いところからの声というものを
聴く、その為に我々は生きている。
 あるいは、もっというと、その目に
見えない程の世界、奥の奥の体というのは
常にそういう本来の深い声を聴いてる訳
ですから、我々の肉体が覚知しようが
しまいが、その霊の生命を聴いて心を
受けて生きている。そういうものが我々の
肉体の実は養い親になってるし、肉体を
養ってる元になってるいうことを
思いますとね。キリストが言ったね、
「何を食べようかとか何を飲もうかとか
想い煩うな」というのがありますよね。
「あの空の鳥をみるがよい」という風な
ことを言いますね。それは何かというと、
黙ってても棚ボタにお金が入ってくるとか
じゃないんです。
(後半へ続く)