平和な心(4)

            (前日の続き)
 心というものは放ったらかしておくと、本当に
喜びたがるものなんですね。それに、この世の色んな
枠なんかで、我々が色メガネで世間というものをみて、
自分の心というものを見てしまいますと、それはもう
我の世界と同じ様に見えてしまう。そうではなくて、
心というのは神様と繋がっているものですから。
 そういう心を我々はいただいて、そして平和に
生きるようになってるものなんですから、平和に
ならないという方が、本当は原則から言えば、普通
ではないおかしいんです。ですから、本当は私の心は
元々平和なんだなと思って、今の不安なり不満なりを
こちらに預けて下さったら、こちらの方でちゃんと
浄めて光を送って、そして、後で考えてみたら、
あああそこで迷って悩んで立ち止まって、お金は
失くなったけど、あそこで宝を貰ったなあ、とか
ということが5年たったり10年たったりすると
分かるようになる。そこまで連れていくのが私の
仕事なんでして。喜びそうな事言って五井先生は
連れていくというけれども。

 そうじゃない。やっぱりこの世の中に生きること
というのは、非常に辛いことが多い訳です。その中で、
世界人類が平和でありますようにと言ったってですね、
自分の気持ちが平和にならなければ、とてもじゃ
ないけれどやりきれない訳ね。人の為に祈るなんて、
そんな気持ちになれない人がこの世の中に一杯いる
訳なんですよね。そういう時には、祈れと言ったって
祈れませんから、すいません私は今祈れませんよろしく
お願いしますと、もうとに角預けなさい。銀行じゃ
ないけど、預けて預けきったら、そこでふっと何だか
訳の分からない道が開けてくる、という風に私は言う
訳なんです。その時に、預け切ってしまいますと、
必ず自分の生命の奥にある愛念というものがふーっと
静かに昇ってきましてね、誰を愛するとかいう理屈
じゃなくって、何か心を一滴平和にする様なものが
ポッとおきる訳です。そこで、ああそうだ、それじゃあ
もう任せてしまおうという気持ちになる。法然さんとか
親鸞さんはそういう気持ちになって南無阿弥陀仏を
唱えたし、キリストというのはそういう気持ちになって
神様を説いた。我々だって、そういう気持ちになって
祈りを続けていけば、やっていけないことはないんです。

 自分がやると思うからとっても大変なんですね。
 自分は何にも出来ないです。自分の生命も何もかも
これは借りものなんですから、いただいてるもの
なんですから、自分のものというのは体の中に一本も
ない訳ですね。足の一本も造って生まれて来た訳
じゃない。全部神様からいただいてるものです。
 それで、私はこういう風に生きたいんですと
こちらで自分の人生を設計して、そうして、
どうでしょうかと見取図を出す。そうすると、
神様の方で見て、ああここはちょっと道が
曲がってるよなんていうことになると、ある計画が
ストップになったりですね、こっちで折角何かしようと
思ってるのにうまくいかなかったり、そういう形で
現われてくるかもしれないけれど、それは向こうの方が
危ないと思ってるからストップをかけてる、というのが
私には分かる訳ですね。ですから、個々色んな場合に
色んな背景があるとは思いますが、それをひっくるめて、
とに角祈って祈って祈り抜いて行く。祈ること即ち
行なんです。行というものは光に繋がる訳ですね。

 とに角何でもかまいません。べつに、世界人類が
平和でありますようにでなくとも構わないんです。何にも
宗教を信じていない人でも、太陽を拝んで、ああ今日も
一日ありがとうございましたと言ったら、その時その人は
光明になっているんです。そのように人間というのは
赤ん坊みたいに、無邪気に明るく生きていければいい訳
なんです。ただ私は、その立場立場のその方達の心の本心を
開くお手伝いをする。それが五井昌久の天命ですから、
そういう事を白光の方々も心がけて、そうして、ただ
五井先生を拡めるとか、これが一番いいお祈りですよとか
いうのではなくて、その人の世界の言葉でしゃべる。
 その人の世界の言葉でこちらから語りかけて、そうして、
頑なになってる心であればそれを抱くようにする。その時
には私もそばに居ますから。

 決して自分がするというのではなく、何か大きな神様の
愛があって、その大きな神様の愛によって我々は生きて
いるんだということを、しっかりそこだけを間違わないで、
そうして、お浄めでも何でもさせていただく様に
なればですね、その人自身の余分なものは離れていくし、
それから、自分自身も浄まっていく訳ですね。そうして、
この世の中の生活というものも大事ですから、その生活の
中で出来る時に祈って行けば、いつの間にか、そうだ
あの人と喧嘩をしていたっけという様な、そういう心に
なっていく訳なんです。

 それは今、平和にしよう平和にしようと思っても
出来ない。出来ないけれども、努めていくとね、何も
努力しないでいいというんじゃない、努力をしていくと、
そういう風に余分なものを取っ払って下さるのです。
 その取っ払いの役が色々あるんですよ。守護霊さんとか
守護神さんとか私とか、色々あるんですよということを、
世界人類が平和でありますようにという何の把われもない
言葉の中に全部込めて、語り込んである。祈り込んである
訳なんです。だから、あれを祈ると心は確かに平和になる
訳です。

 色々な宗派の方がおられると思うし、俺は無宗教だ
という人もいると思うけれども、しかし、世界人類が
平和でありますようにの中に込められるようなそういう
ひびきでもって生きていかなければ、今の世の中、
もう光明化していくということは出来ない。

 ですから、色々な宗教や、あるいは宗教の立場じゃ
ない人達とも一緒に生きる、共に生きるということを
目ざしていく為には、自分の生命というものを一回
神様に返してしまって、預けてしまって、それから
無になって祈る。そして、祈っていく事を毎日の朝夕の
日課にする。そういうところからやっぱり、励みに
なって、光というのは出て来る訳なんです。

 もちろん、祈りというものは肉体だけではない。その
奥の体でずっと祈りづめに本当は祈ってるんです
けれどもね。肉体がそれをちゃんと自覚をする為には、
どこかで時間を決めて祈るという、一つの形という
ものがいる訳です。私から見ていると、形という
ものは全く無意味と言ったら何ですけれども。でも
やっぱり統一会などで世界平和の祈りを致しましょう。
 ね。私などが導師になってやる。あるいは村田さん
なんかがやる。昌美がやる。というのは、そこで心を
一つにして祈る。時を同じくして祈る。覚えて祈る。
 ということによって、本心の中にスーッと入っていく、
自分の中の本心にスーッと入っていって、人間の
本来の生命と出会う。というそこを目指している訳です。
 ですから、朝夕にその人が祈りやすい時間で
いいんです。朝起きて寝起きが一番自分は緊張して
よろしいとかですね、色んな人がいると思います。
 その人のその立場によって祈ってゆけばですね、
気持ちというのは段々落ち着いて静かになって平和に
なっていく、しーんとして本当に平和になった瞬間
というのは、実は、我々は個々にいて本当は分かって
いないけれども、宇宙の中の平和の元、根元と一体に
なってるんだ。

 だから、我々の生命は個の生命であると同時に、
人類全体の中の一つの一滴の生命であって、そして、
人類というものを支えているんだ。もっと言えば、
宇宙神の御心を支えているんだ。そういうつもりで
生きていっても構わないんです。ただそれをあんまり
声高にいいますとね、じゃあ我々だけが御心を
やっていく人間なのか、これは字面だけを
とりますとね、何といいますか、傲慢無礼と
いいますかね、そう聞こえてしまう。

 ですけれども、本当のところ言えばやはり、個人
だけの生命じゃない訳ですね。人は一人では
生きられないと言うけれども、何かこう気持ちが
寂しがる、心が寂しがる。そして、例えば、
アメリカと日本に離れていても、知らない人と
ある日であうことがあるかもわからない。それと
同じように、実は我々は霊的には皆知り合い
なんですね。この世の中に生きてる人達というのは
皆、今の時代に会う人も会わない人も、皆知り合い
なんです。ですから、ここで我々が祈り心でもって
何かする。心を落ち着け静かに働いていく。質実に
自分を高めていく。そういう事をしていると、
それが人類全体のひびきになっていく訳ですね。
              (翌日に続く)