平和な心(3)

         (前日の続き)
 自分の心は自分がよく知ってると言いますけれど、
我々の中で知っているように思うのは、それは感情
なんでしてね。肉体人間の中の我の一番上の部分、
氷山の一番見えてる部分しか分からない。心という
ものは、ずーっと奥に行きますと本来心があって、
本来心の奥は宇宙につながって、宇宙の奥は神様に
つながってる訳なんです。非常に距離が遠いように
思うけれども、キリストが言いますね、「汝らの内に
神あり」と。あれと一緒で、人間の奥の奥には神様と
同じ生命の流れがあるから、自分の中の神様と話を
しようと思ったら、自然に祈りに入っていけば神様の
声が聴こえるというか、神様がこう望んで
いらっしゃるんだな、人間の生命というのはこう進んで
行くもんなんだな、あるいは、世の中の運行と
いうものは本当の意味では公平なんだなということが
分かって来るんですね。あるいは、もっとはっきり
言ってしまえば、奥の体というものがそれはもう
分かってる訳なんです。  

 ですけれども、我々何十年か生きてまいりまして、
やっぱり、それなりの社会的な地位だとか今の立場
だとか、結婚してるとか結婚してないとか、色んな
此の世的なとらわれがあります。こだわりもあります。
 そのとらわれとかこだわりを無理にとってですね、
そうして、じゃあ皆同じ様に宗教の道へ入れといったって、
それは無理な話だから、そのこだわりはこだわりとして
それを一見大事にしながら、本当に子供みたいに
祈っていくと、道というのは開けていくものなんですね。

 だから、目の前の表面的な現われてきた環境だけに
把われていると、本当のことというのは分かりにくい。
 そして、その奥のことというのは本当に人間には
分からない色々なものがある訳なんです。例えば、
生死にしましても、何十年も健康でやっていけるだろうと
思った人が、ポックリ心臓で死んでしまったりとかですね、
こんなに一杯病気持ってる人がという人が、何十年も
生きちゃったり、そういうこともある訳です。だけれども、
それは神様の側から見ていれば、本当に大宇宙の中の
大きな流れの中の一滴として、人間の生命を器を使う。
 公平に使うということが大大大奥にはある訳
ですけれども、そこまでいかなくてもね、祈りの階段を
一歩づつ登るというのは、取り敢えず今の私をそのまま
正直に神様の前にさらけ出して、そして、「すいません
お願いします」と言ってお祈りをする、続けていく。
 そうすると、いつの間にか平静になって、心が平和に
なって静かになって、自分で力むのでもなく、まわりから
色々な援助が来たり、あるいは、人の為に祈る気持ちが
起こったり、親切にする気持ちが起こったり、
われしらず喜んだりする訳なんですよね。
                   (翌日に続く)