2017年04月08日

平和な心(1)

 私共にとって、心を平和にするということはなかなか
出来ることではありません。それは何故かと申しますと、
一日の間にでも、色々悲しい事が起ったり、厭なことが
起ったり、悔しい事が起ったりして、心の中を平和に
保つということは、まことに難しい事だからであります。
 が、それをどういう風にすれば平和にできるかと
思って、人間というのは、例えば、芸術方面で、
美術を鑑賞したりあるいは書道をやったりお花をしたり、
色んな心を和ませる様なことをして、そうして、自分の
中の雑駁なものを取ろう取ろうと思って、一所懸命
やるんだけれども。でも、花に向かい合ってる時には
平和であっても、人間関係のギスギスした現場へ戻って
来ると、その平和であった穏やかであった心が元へ戻って
しまって、元の木阿弥になってしまってね、それでどうにも
ならなくなっちゃう。こんな事では、いくらお金を使って
お稽古事をやったって、何かもう自分の中のちょっとした
気慰みにしか過ぎないじゃないかという風な事で、そういう
人が溜息ついたりするのを聞いてますとですね、自分の
内の色んなゴタゴタをじゃあ何処へ捨てたらいいのかと
いうので、今、とっても悩んでる人が沢山いる訳ですね。

 例えば、山登りの好きな人など山に行くけれども、山の
頂上に立って、ああいい気持ちだなあ、人間は
小さいなあ、と思う。その想った瞬間はいいけれども、
又こっちへ帰って来て駄目になる。その繰り返し
なんです。それで、その慰めというか、もっともっと
人間のその生命(いのち)の萎びている状態をなんとか
しなきゃというので、何が出て来たかというと、文学が
出て来たり色々なものが出て来たりするけれども、結局
落ち着かない。落ち着かないというのは、人間の肉体
というのは何時も申しますように、我でもって汚れている。
そうして、色んな人の言うことなどが気になって、
自分の評判はどうだろうとか、自分の仕事は旨く
いくだろうかとか、そういう心配や不安、不平やら不満
などですね、色んなものがこう重なっておりみたいに
なってるもんだから、なかなか自分の心を落ち着ける
というところまでいかない訳なんです。

 それで、もちろん、レンブラントだとかミレーやゴヤ
だとか、東西の色んな良い芸術家がおりますけれど、
そういう人達、その天心を現わした人達というのは、
本当に導き手ではあっても、我々凡人がその人達と一緒の
心になれるかといったら、そうはいかない。
 それで、芸術なんかと同時に、慰め以上のものとして、
やっぱり、釈迦だとか孔子だとか、それからキリスト
だとかですね、色んな人が出て来て、そうして道を
説いてる。何を説いてるかというと、祈るということに
ついて説いてる訳です。
             (翌日に続く)

posted by wadatsumi at 14:27| 祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする