2017年04月13日

心のながれについて(前半)

 我々が毎日誰よりも親しく付き合って
いるものというのは、考えてみますと、
心ではないでしょうか。
 朝起きて、さわやかに目覚めることが
出来たとか、あるいは、ちょっと
睡眠不足で体がだるいなあとか、
そういうことを感じる。覚知して、
そしてくたびれているにしろ何にしろ、
起き上がるというのは、それはやはり
気持ちの働き、心の働きであります。

 我々はよく自問自答なんてことを
申しますけれども、自分に問うて
自分に答えるというのは、毎日毎日
自分で無意識でもやっている訳ですね。
 自分で考えて、ああお茶を飲みたい、
誰かに会いたい、こういう予定がある、
というのはそれは記憶ということも
あるけれども、それをしたいとかしたく
ないとか、面倒くさいなあとか疲れたなあ
とかということも含めて、それは自分の
気持ち、心と対応し続けながら、毎日
肉体を養っている訳であります。

 親兄弟というのは絆が深いとか申します
けれど、私なんかに言わせると、親兄弟
よりももっともっと自分の中で深い
関わり合いを持っているのは、自分の
そういう自分自身を覚知する心で
ありますね。ところが、いつも申します
ように、心というものはずっと奥の深い
ところで神様と繋がっている。

 神様の世界なんていうと、この世と
あの世という遠いかけ離れたところ
のように思う。ある宗教の信者さんだと、
極楽に行くとか地獄に墜ちるとか
墜ちないとかね、あるいは、聖書などで
ゲヘナの火とか何とかいうけれども、
しかし、そういう何か想い焦がれる
とかいう世界じゃなくて、厳然として、
あの世というか霊界と申しますか、
そういう所はある訳なんですね。

 向こうの世界とこっちの世界というのは
ずっと繋がっている。一つづきになって
いる。だから、霊界移行という言葉を申し
ますけど、それは実際に移っていくので
あります。我々自身がこの肉体を
脱ぎ捨てて、向こうの世界に移って、
そしてさらに自分の生命を豊かにしていく。
 そういう為の移り住み、それが霊界移行、
死なんだと。だから、この世の誕生と
向こうの往生というのは、これは二大祝賀
行事であると私がいつも申しますのは、
そういうことなんですね。

 この肉体は食べなきゃ我々は死にます。
 飢えれば大変なことになりますね。
 その為に働かなきゃなんない、お金を
得なきゃなんない。そういう想い煩いが
霊界に移行すると、一回こうすっと抜ける
もんだから、色々な痛みや煩いがないぶん、
余分なものがなくなって働きやすく
なるわけね。

 で、働きやすくなるというのはもっと
厳密にいいますと、これは素のまんまに
なる。素直になる。その人の本心が
現われてくる。そういうことなんですね。
 我々世界人類というのはですね、人間
一人一人というのは神様の御心の分かれ
なんです。生命の分かれなんですけれども、
その御心と心を一つにしていく、本当の
ところをいえばそうですね。それで
生きてる。神様の生命を貰って生きてる。


 生命を生き生きとさせる。心をひそめて
ずっと自分の心の流れをみていくと、
本心に連らなっているから、その
連らなっている自分自身というものが、
先程も申しました様に、非常に大きく深い
ものなんですね。そうしてその人間の心の
流れというものは、自分の中の例えば、
これが飲みたいとかあの人に会いたいとか、
そういう欲求とかいうものだけじゃなしに、
もっともっと深い深いところで繋がって
いて、実は、深いところから我々の肉体を
養なう、例えば、暑いとか寒いとか
そういう色々な欲求が出て来る訳ですね。


 今こうして世の中で生きる為の、必要に
応じたものがちょっちょっとこう出てくる
けれども、しかし、本当を言えば、
本来心の深いところからの声というものを
聴く、その為に我々は生きている。
 あるいは、もっというと、その目に
見えない程の世界、奥の奥の体というのは
常にそういう本来の深い声を聴いてる訳
ですから、我々の肉体が覚知しようが
しまいが、その霊の生命を聴いて心を
受けて生きている。そういうものが我々の
肉体の実は養い親になってるし、肉体を
養ってる元になってるいうことを
思いますとね。キリストが言ったね、
「何を食べようかとか何を飲もうかとか
想い煩うな」というのがありますよね。
「あの空の鳥をみるがよい」という風な
ことを言いますね。それは何かというと、
黙ってても棚ボタにお金が入ってくるとか
じゃないんです。
(後半へ続く)

posted by wadatsumi at 07:55| 祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月12日

平和な心(5)

         (前日の続き)
 いつも私が申し上げたように、色んな天災
だとか、テンサイと言ったって凡才天才のテンサイ
じゃないですよ。そうじゃなくて天変地異ね。大雨や
雪などの天気というものね。天気というものは、
今悲しいことに、人間の業によって大水が出たり
何だかんだで浄めなければいけない、そこまで
来ている。つまり、業がそれだけ空気を
汚れさせている。人類の心の空気を汚れさせている。
 だから、世界平和の祈りというのは、そういうのを
光明波動でもってサーッと掃除をするというのは
あるけれども、とに角我々一人一人が誠実に
自分の持ち場でずっとやっていると、それが
自分一人だけのことに返って来ないで、そのひびきが
ずっと全体にまわっていって、そうして、宇宙
そのものからも光明がくる。

 さっき私が申し上げたようなああいう順序で
真理が花開いていくというのは、これは真実な
ことなんですね。

 そこまで人間というものは大きくて深い。自分の
身の丈何尺何寸とか昔いいましたけれどね、
今で言えば、160とか170とか、180センチに
なったら高い方だとかいいますけれど、人間の大きさ
というのは本当はずっと宇宙まで貫いていくみたいな、
それ程大きな光明体なんですね。ですから、本当に
深い人を霊視しますと、もうこの会堂いっぱいとか、
この家いっぱいでは足らなくなる。もうずっと貫いて
天までいっちゃうんですね。それは特別な人
じゃなくって皆がそうなんです。皆が光なんです。
 ですから、その光を集めて、そうして何かやったら
これはすごいことになる訳です。

 だから、我々がやってる世界平和を祈る運動
というのは、世界人類が平和でありますようにという
祈りを国と国も、人と一緒にやる。そうすると、
その人達の言葉を、外国人であるとか英語であるとか
独語であるとかいう言葉の壁を超えて、本心の
ひびきで祈るもんですから、その人の本心と私の本心
とがひびき合って、そうして、そこから愛と平和
というものが生まれてくる訳なんです。
 私共の目指している平和というものはそういう
ものなんでして、そしてそれは絵空ごとでも何でも
なくて、人間というものを真実に深めて、じいっと
見つめてみつめ直してゆくと、そういうすごい
素晴らしい働きというものが人間の中にはあるんだ
ということね。それは霊肉が一致してやっていける。

 昔は即身成仏といって、生きたまま仏になるという
ことを目指して生きた。だから、飢えてそのまま
死んじゃったりした人がいますよね。お坊さんでもね。
 本当に無になって死んでる人もいるけれども、
いつかのミイラの話じゃないけれど、即身成仏の
ミイラのそばにいったら、食べたくて食べたくて
しようがなくなった人がいる。

 それは、食べたい食べたい食べたいと想いながら、
一方信仰心で押さえて死んじゃったもんだから、
その食べたいという餓鬼道の餓鬼のようなああいう
心がね、誰か幽体の広い人にとっついて、それで、
その人は食べて食べて、祈ってもらってやっと
食欲がおさまったなんて話があるけれども、あれは
やはりどこか自然なものじゃないですね。不自然な
ものなんですね。人間というのは、霊が非常に
大きいからといって皆自殺する訳にはいかない。皆、
この肉体をもって辛いことがあっても、家族と
ぶつかろうが何をしようが、やっぱり生きて
いかなきゃいけない。それは何の為かといえば、
自分の生命の為なんです。

 自分の生命というのは、明るい朗らかなもの
なんだから、本当は、だから、本当に明るい朗らかな
ものを導き出して、そして、抱き合う為に我々は
何をするかといえば、祈る訳ですね。とに角、祈る
ことによって生命を宣り出す訳ね。自分の中にある、
明るい何ものにも把われないね。生命を宣り出す
訳なんです。その為に我々は心を合わせて祈る
訳なんですね。

 だから、一人だけでポツンと祈ってるように
みえてもね、目に見えない世界で、誰も会ったことも
ないような人達の霊体なんかがすっとあなたの
そばに来て、霊的に言えば、うしろでこう支えて
一緒になって世界人類がーとやってる。あるいは
アーメンとやってる。そういうことは、私なんかの
目から見ますと、いっぱい見えることなんですね。
 そういう、私は一人ではないんだというね、つまり、
皆共に生きてる生命であって、そして、その生命
であるということを確認するんだ、それが世界人類が
平和でありますようにという祈りなんです。

 世界中の人と友達であるかないかなんていうのを
確かめる為に、世界旅行に出るなんてことは
できません。それを、霊的にも色んな意味で、深い
意味で確かめるにはあの祈りしかないんですね。
 世界人類がということを口にしただけで、あーと
思えるというのは、本当にあーそうだ、私は
世界人類の一人なんだなと、その時には、国とか
民族とか家族とか柵とかというそういう余分なものは
もう取っ払っています。もっと大きな視野に立った
ところから自分を見ています。個を見ています。
 そうして全体を見ていくものなんですね。
 ですから、そういう祈りに抱かれて我々は生きて
いくんだということをみますと、ここで平和になる
ということがそれ程絵空ごとでもなく、力むでもなく、
自然にやっていけるようになるということがわかる
と思います。
        昭和63年6月13日
           五井 昌久
posted by wadatsumi at 09:06| 祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月11日

平和な心(4)

            (前日の続き)
 心というものは放ったらかしておくと、本当に
喜びたがるものなんですね。それに、この世の色んな
枠なんかで、我々が色メガネで世間というものをみて、
自分の心というものを見てしまいますと、それはもう
我の世界と同じ様に見えてしまう。そうではなくて、
心というのは神様と繋がっているものですから。
 そういう心を我々はいただいて、そして平和に
生きるようになってるものなんですから、平和に
ならないという方が、本当は原則から言えば、普通
ではないおかしいんです。ですから、本当は私の心は
元々平和なんだなと思って、今の不安なり不満なりを
こちらに預けて下さったら、こちらの方でちゃんと
浄めて光を送って、そして、後で考えてみたら、
あああそこで迷って悩んで立ち止まって、お金は
失くなったけど、あそこで宝を貰ったなあ、とか
ということが5年たったり10年たったりすると
分かるようになる。そこまで連れていくのが私の
仕事なんでして。喜びそうな事言って五井先生は
連れていくというけれども。

 そうじゃない。やっぱりこの世の中に生きること
というのは、非常に辛いことが多い訳です。その中で、
世界人類が平和でありますようにと言ったってですね、
自分の気持ちが平和にならなければ、とてもじゃ
ないけれどやりきれない訳ね。人の為に祈るなんて、
そんな気持ちになれない人がこの世の中に一杯いる
訳なんですよね。そういう時には、祈れと言ったって
祈れませんから、すいません私は今祈れませんよろしく
お願いしますと、もうとに角預けなさい。銀行じゃ
ないけど、預けて預けきったら、そこでふっと何だか
訳の分からない道が開けてくる、という風に私は言う
訳なんです。その時に、預け切ってしまいますと、
必ず自分の生命の奥にある愛念というものがふーっと
静かに昇ってきましてね、誰を愛するとかいう理屈
じゃなくって、何か心を一滴平和にする様なものが
ポッとおきる訳です。そこで、ああそうだ、それじゃあ
もう任せてしまおうという気持ちになる。法然さんとか
親鸞さんはそういう気持ちになって南無阿弥陀仏を
唱えたし、キリストというのはそういう気持ちになって
神様を説いた。我々だって、そういう気持ちになって
祈りを続けていけば、やっていけないことはないんです。

 自分がやると思うからとっても大変なんですね。
 自分は何にも出来ないです。自分の生命も何もかも
これは借りものなんですから、いただいてるもの
なんですから、自分のものというのは体の中に一本も
ない訳ですね。足の一本も造って生まれて来た訳
じゃない。全部神様からいただいてるものです。
 それで、私はこういう風に生きたいんですと
こちらで自分の人生を設計して、そうして、
どうでしょうかと見取図を出す。そうすると、
神様の方で見て、ああここはちょっと道が
曲がってるよなんていうことになると、ある計画が
ストップになったりですね、こっちで折角何かしようと
思ってるのにうまくいかなかったり、そういう形で
現われてくるかもしれないけれど、それは向こうの方が
危ないと思ってるからストップをかけてる、というのが
私には分かる訳ですね。ですから、個々色んな場合に
色んな背景があるとは思いますが、それをひっくるめて、
とに角祈って祈って祈り抜いて行く。祈ること即ち
行なんです。行というものは光に繋がる訳ですね。

 とに角何でもかまいません。べつに、世界人類が
平和でありますようにでなくとも構わないんです。何にも
宗教を信じていない人でも、太陽を拝んで、ああ今日も
一日ありがとうございましたと言ったら、その時その人は
光明になっているんです。そのように人間というのは
赤ん坊みたいに、無邪気に明るく生きていければいい訳
なんです。ただ私は、その立場立場のその方達の心の本心を
開くお手伝いをする。それが五井昌久の天命ですから、
そういう事を白光の方々も心がけて、そうして、ただ
五井先生を拡めるとか、これが一番いいお祈りですよとか
いうのではなくて、その人の世界の言葉でしゃべる。
 その人の世界の言葉でこちらから語りかけて、そうして、
頑なになってる心であればそれを抱くようにする。その時
には私もそばに居ますから。

 決して自分がするというのではなく、何か大きな神様の
愛があって、その大きな神様の愛によって我々は生きて
いるんだということを、しっかりそこだけを間違わないで、
そうして、お浄めでも何でもさせていただく様に
なればですね、その人自身の余分なものは離れていくし、
それから、自分自身も浄まっていく訳ですね。そうして、
この世の中の生活というものも大事ですから、その生活の
中で出来る時に祈って行けば、いつの間にか、そうだ
あの人と喧嘩をしていたっけという様な、そういう心に
なっていく訳なんです。

 それは今、平和にしよう平和にしようと思っても
出来ない。出来ないけれども、努めていくとね、何も
努力しないでいいというんじゃない、努力をしていくと、
そういう風に余分なものを取っ払って下さるのです。
 その取っ払いの役が色々あるんですよ。守護霊さんとか
守護神さんとか私とか、色々あるんですよということを、
世界人類が平和でありますようにという何の把われもない
言葉の中に全部込めて、語り込んである。祈り込んである
訳なんです。だから、あれを祈ると心は確かに平和になる
訳です。

 色々な宗派の方がおられると思うし、俺は無宗教だ
という人もいると思うけれども、しかし、世界人類が
平和でありますようにの中に込められるようなそういう
ひびきでもって生きていかなければ、今の世の中、
もう光明化していくということは出来ない。

 ですから、色々な宗教や、あるいは宗教の立場じゃ
ない人達とも一緒に生きる、共に生きるということを
目ざしていく為には、自分の生命というものを一回
神様に返してしまって、預けてしまって、それから
無になって祈る。そして、祈っていく事を毎日の朝夕の
日課にする。そういうところからやっぱり、励みに
なって、光というのは出て来る訳なんです。

 もちろん、祈りというものは肉体だけではない。その
奥の体でずっと祈りづめに本当は祈ってるんです
けれどもね。肉体がそれをちゃんと自覚をする為には、
どこかで時間を決めて祈るという、一つの形という
ものがいる訳です。私から見ていると、形という
ものは全く無意味と言ったら何ですけれども。でも
やっぱり統一会などで世界平和の祈りを致しましょう。
 ね。私などが導師になってやる。あるいは村田さん
なんかがやる。昌美がやる。というのは、そこで心を
一つにして祈る。時を同じくして祈る。覚えて祈る。
 ということによって、本心の中にスーッと入っていく、
自分の中の本心にスーッと入っていって、人間の
本来の生命と出会う。というそこを目指している訳です。
 ですから、朝夕にその人が祈りやすい時間で
いいんです。朝起きて寝起きが一番自分は緊張して
よろしいとかですね、色んな人がいると思います。
 その人のその立場によって祈ってゆけばですね、
気持ちというのは段々落ち着いて静かになって平和に
なっていく、しーんとして本当に平和になった瞬間
というのは、実は、我々は個々にいて本当は分かって
いないけれども、宇宙の中の平和の元、根元と一体に
なってるんだ。

 だから、我々の生命は個の生命であると同時に、
人類全体の中の一つの一滴の生命であって、そして、
人類というものを支えているんだ。もっと言えば、
宇宙神の御心を支えているんだ。そういうつもりで
生きていっても構わないんです。ただそれをあんまり
声高にいいますとね、じゃあ我々だけが御心を
やっていく人間なのか、これは字面だけを
とりますとね、何といいますか、傲慢無礼と
いいますかね、そう聞こえてしまう。

 ですけれども、本当のところ言えばやはり、個人
だけの生命じゃない訳ですね。人は一人では
生きられないと言うけれども、何かこう気持ちが
寂しがる、心が寂しがる。そして、例えば、
アメリカと日本に離れていても、知らない人と
ある日であうことがあるかもわからない。それと
同じように、実は我々は霊的には皆知り合い
なんですね。この世の中に生きてる人達というのは
皆、今の時代に会う人も会わない人も、皆知り合い
なんです。ですから、ここで我々が祈り心でもって
何かする。心を落ち着け静かに働いていく。質実に
自分を高めていく。そういう事をしていると、
それが人類全体のひびきになっていく訳ですね。
              (翌日に続く)
posted by wadatsumi at 07:05| 祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする