2017年04月19日

宝について

 私のところへ色んな人が来ます。
 まあこういう言い方をすると誤解する
人もあるかもしれないけれども、地位の
ある人も来るし、お金を持ってる人も
来るし、社会的に名誉をもってる人にも
会ったことはあるし、かと思うと、
その日をどうやってお米代を出そうか
といって悩んでる悲しんでる人も
来ましたし、未だに色んな人の姿をこちら
から見ておりますが、つくづく思う事は、
余分なものを持たないことの清しさ。

 ところが、人間というのは余分なものを
持ちたくなる。で又、持ちたいと想う時、
持たされている時というのは、余分なもの
だとは思わないですね。
 例えば、会社に勤めていて、月給が
上がっていく。上がっていくことはそれで
生活が楽になってくる事だから、それは
安心立命の元なんで、良かったですね、
としか言い様がない。普通ならばそう
なんだけれども、段々段々10万円で生活
していたものが20万になって、20万円
で生活していたんが30万になっていくと、
これは、30万の生活に慣れると、今度
逆に、20万にする10万にするという
のは非常に難しいんですね。
 今までの生活の習慣といいますか、
これだけの経済でこれだけの事をやって
いくというのが、もう多ければ多いことに
慣れているから、それを減らしてやって
いくというのは、何か自分の立場とか
自尊心とか、今までの経歴とかいうものも
全部否定されるような気になる。だから、
なかなか諦めていくということは難しい。
 経済一つとっても、人間というのは
なかなか不自由に出来ているんです。

 たとえば、欲というものは良い欲と悪い
欲とあってですね。悪い欲というととらわ
れているみたいだけれども。何が何でも
お金が欲しい地位が欲しい名誉が欲しい
というので、ガリガリ亡者の様に、
そういう気持ちでものを求めていって手に
している人というのを見ると、中身が
カラッポと申しますか、外見だけ色々
あるんだけれども、中身が非常に空虚な
感じがする。物質的に色々持っていても
何か非常に虚しい。何によってこの人の
心は救われていくんだろうかと気になる。
 そういう事をつくづく考えてみると、
人間がどういう時に一番自由になるん
だろうか、どういう時に朗らかになるん
だろうかということになると、自分を
忘れている時ですね。
 自分が何処に属していて、どういう
給料をもらっていて、あるいは今どういう
立場で、どういう顔して生きていくか、
生きていかなきゃいけないか、そういう
色んな煩いを忘れていって、そして、
本当に赤児の様な本当の自分の顔を
出してる、その一瞬の時に人間というのは
救われていく訳ですね。

 それは別に、宗教を持ってるもってない
に関わりなくそうなんです。私共は
そういう我を忘れた本来の自分の素顔、
ふっと出すその素顔が、5分でも10分
でも15分でも長続きをして、自分も人も
良くなっていくように祈っていく。光が
満ちてく様に祈っていく、想いや願いでは
なく、そこへ祈りが加わって、ついには
祈りによって、自分も人も皆が救われて
いくといいますかね、そういう大きな
愛情に包まれる。そこを目指す訳
なんですね。

 だから、実は、そういう風にして空に
なって無になって、そこも突き抜けて
いきますと、本当に人間というのは、
先程から言ってるように、自由になって
解き放たれる。その時に、人間というのは
何も持っていないようだけれども、実は
身も心も突き抜けて、一番の宝物を
持ってることになる、それは何か
というと、何ものにも煩わされない、
何ものにも強制されない自分自身と
いうのがそこへ素直に出せる。その時に
人間というのは一番安心するんです。

 それは私の方から言いますと、神様の愛
というものを知って、神様の自分が子供
であるということを知って、神様が全部
知って下すってるそのふるさとへ帰って、
ふっと安らぐ時に、人間というのは一番
安心するんです。そいういう風に人間
というのは出来てるもんなんです。神様と
いうのは我々のふるさとだから、別に宗教
でなくても、芸術であっても何であっても
とに角人間というのは、そのふるさとを
目指して歩いている旅人みたいなもの
ですから、そこへ我々は、どんな形で
あっても、その人達を連れて行きたいと
思う訳です。

 自分の中にある宝というものを持ち腐れ
にしないで、その宝を確認して祈って
やっていくと、益々自分自身も張り切る
ことが出来るし、輝くことが出来るし、
まわりも喜ぶことが出来る。

 これはもう、自分も他人も両方の成道
なんでしてね。道が成っていくので
あります。ですから、そこをすべての
宗教家は目指しましたし、私自身もそれを
目指して今までやって来ている訳だし、
これからもやっていく訳であります。その
為に、世界人類が平和でありますように
という祈りは、誠に絶大な力を発揮する訳
でありまして、唯無心にこの祈りを唱えて、
そうして神様に任せていく。その時に
本当に自分自身が自分自身として生きる。
 その喜びの瞬間というものを取り戻す
ことが出来る。そうして、それがずっと
続いていくと、やがて道がついていって、
自分も知らない間に、あーこんな所まで
来てしまったかというような所まで、神様
というのは連れていって下さる。
 そういう事を信じて、そうして謙虚に
なって、この祈りを唱えていきたいもの
だと思います。
    昭和63年6月13日(月)   
         五井 昌久
posted by wadatsumi at 10:45| 祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月18日

ゆるされている生命(いのち)(後半)

         (前半の続き)
 祈りの場というものは、人間が作る様に
思うけれども、本当は、人間というのは
見えないところで祈って祈って
祈り抜いてる。自分が意識しようと
しまいと、本体というのはずっと祈りの座
についていて、自分というのは神界にいて、
光になって祈ってる。神界にも自分自身が
いる訳ですから。そうして、御心と一体
になって、こっちに光を送ってる。こっち
からも光を送ってる。光の呼びかけ合い、
呼び合いをやってる訳です。呼び返しの
中で我々は生きてる訳なんですね。

 それは何の光かというと、ゆるしの光
なんですね。だから罰も何も無い。罰を
当てるとか当てないとか、そんな狭苦しい、
そんないい加減な世界じゃなくって、
その光のシャワーを浴びてる時というのは、
人間は本当に自由になってる。本当に神の
御心の中に入っている自分自身になってる。
それは、自分が意識しようとしまいと
そうなんです。そうやって人間というのは
生きているんですね。ちょうどこの我々の
肉体というものが、飲んだり食べたり
眠ったり、ある程度動いたりしないと、
この肉体の生命を保っていけないように、
我々の奥の複雑な霊妙な体というものは、
神様の光を受けていかないと生きて
いけない。

 これは随分と申し上げて来たこと
ですけれども、その光というものは何から
出来ているかというと、ゆるしから
出来てる訳ですね。あるいは愛から
出来てる訳です。
 愛とゆるしというのは何処から出てるか
というと、神様から分かれて来ている生命
である人間に対する、極まりの無い愛
なんですね。

 それは、我々がこの地球に降りて
来た時は、この地球を、神様の御心に
従って、神様の御心が顕現されるような、
そういう方針にするべく、我々はここに
降りて来て、やってた訳なんだけれども、
それが、霊性が働いている間はよかった
けれども、だんだん肉体を被っていく内に、
それを忘れちゃって、人が霊止にならなく
なって、つまり霊止まるという霊止(ひと)
の方を忘れて、人間の人(にん)という、
そっちの方の肉体の方の人だけが
残っちゃって。だけど消えては
いないんです。霊止というのはね。何故か
というと、霊が無ければ我々は生きて
いない訳ですから。ただそれが何か、
我(が)の世界の中に今はなっていて、
それが押し込められてる感じなんですね。
その押し込められてる、ちょっとしか顔を
覗かして今は生きていけない、息が
出来ない、その状態を何とか解きほどいて、
解き放ってやっていかないと、今はもう
地球も大変だし、自分自身も大変だし、
世界人類も大変だし、ひいては宇宙も
大変だしね。人間だけじゃない宇宙生命
そのものだって大変なんです。

 という時に、じゃあその全部の生命を
健やかに柔らかに、有るがままの有りの
ままの生命を宣り出そうというその祈り
というのは、「世界人類が平和で
ありますように、日本が平和であります
ように、私達の天命が完うされますように、
守護霊さま守護神さまありがとう
ございます」というあれなんですね。
あれで全部救われていく訳なんですね。
だから、あの祈りというものは、大変な
光明体なんです。その光明体を我々は
持ってるんです。それは唯単に、白光の
人があの祈りをするから救われるとか
そういう事ではなくて、元々の神様の
御心を祈り言にしたらああいうことになる。
そうして、その元々の神様の御心の光
そのものというのは、どんな人の中にも、
例えば無神論者の人の中にも、物質主義者
の人の中にもね、皆入ってる訳なんです。

 この世の中でいえば、信仰しない人は
救われないとか色々言うけれども、
そんなんじゃないんです。それだったら
もう小乗(しょうじょう)以下なんですね、
大乗(だいじょう)と小乗とあって、大乗
というのは勝れた乗り物という意味
だけれども、勝れた乗り物というのは
神様の大きな大きな大愛で、その愛と
ゆるしの光そのものなのです。
 その愛とゆるしからいうと、神様と
いうのはついぞ人間を責めた事がない。
 ついぞ人間を裁いたことがない。

 その裁いた事がない神様に、我々がこの
生命をこの心を捧げて生きていくことが
出来たら、その時に、神様の方の喜びも
大きくなるし、我々の方にいただいている
光だってますますその輝きを増して、この
世の中で成してゆくべき仕事ですね、肉体
の中で関わっていかなきゃならないこと、
悩まなければならないこと、
苦しまなければならないこと、あるいは
喜(よろこ)び事、そういうものも、何と
いいますか、スーッと来てスーッと
通り過ぎるんです。

 決して私の申し上げてる事は、ご利益の
宗教じゃないんです。人間が果たして
いかなきゃいけない務め、そうして、
どうしても果たしていかなきゃならない
宿題というものはあるんです。その為に、
肉体の時間が随分くっちゃって、もう
とてもじゃないけど五井先生どうにも
なりませんという人の嘆きを一杯聞きます
けれども。どうにもなりませんというのは、
肉体の我の方の叫びなんでして、その我
というのを溶かして、そして祈りの中へ
入り込んでしまうと、まだまだ、自分の
中に、永遠の生命としての人間の本来心が
そこに顔を覗かせてきまして、そうして、
その切羽つまってどうにもならないという
ところから反転して、今度は、大生命の
生命の道へスーッと入っていくんですね。

 そのスーッと入らせていく入らせて
いただく、それが「神様」という素直な
呼びかけであり、我々は一人として一度
として、罰っせられた事がない、責め
られたことがない、ずっとゆるされてる、
そういう存在なんだ生命なんだ、皆そう
なんだ、白光の人であろうとなかろうと、
世界人類が全部、どんな人であっても、
例えば、どんなに罪を犯したとこの世で
裁かれている人であっても、そうじゃない
人であってもね、皆光なんです。皆光明
ですから、そこでお互いを礼拝する。尊敬
する。そこで祈る、一緒に祈る、共に
祈る、一人で祈る。一人で祈っても共に
祈っても、そのひびきが世界中をかけ巡る。
 宇宙全体ひびき合う。

 そういう祈りですから、その祈りに
乗って宇宙神の御心の中にふっと入って
いくと、穏やかになって気が楽になって。
そうして、本当に余分なこと、思い煩い、
そういうものはね、肩の力を抜いて、
なるべくこう受けとめていったら、本当に
重荷というものも重くならないで軽く
なっていくもんだというと、これは私の
人間としての経験からも申し上げることが
できると思うんですね。

 重荷を重くするのが神様じゃない。
 重荷を軽くするのが神様なんです。
 ですから、今どんなに打ちひしがれてる人
でも、どんなにどうにもならないと
思ってる人でも、どうにもならないと
思ってることが、それが消えてゆく姿
なんですよね。

 どうにもならないというのは、だから、
それを押し込めるんじゃなくて、自分は
白光の教えを聞いてるのに何でこんなん
だろうと責めるんじゃなくて、あーそう
なんだ、消えてゆく姿なんだと思って、
そして、それを思いっきり出して、
泣くなら泣く、叫ぶなら叫ぶね、出して
消していただいて、そして又生命を
いただいてね、ゆるし放しの愛と平和の
元の神様というものに礼拝をし直して、
いただき直しの生命で、毎日を明るく
生きていくということが、一番我々が
この困難の中から救われていく大元の元に
なっていく訳なんです。

 そこを赤子のように信仰してゆきますと、
絶対に神様というのは我々をいやな所に
変な所に導いていかない。必要なものは
下さる。絶対に下さる。この生命という
ものを使って下さる時がある。その
使われ方というのはどういう使われ方を
するか分からないけれども、とに角、
神様と私は一体の生命であって、一筋の
生命であって、その一筋の生命というのは、
何の滞りもない朗らかな、何の障りもない
ものなんだということを確認できる時に、
我々というのは解き放たれていくんです。
その確認というか、それを肉体の我という
ものに染み込ませる。そうして、霊肉共に
救われていく、その祈りが、世界人類が
平和でありますようにという世界平和の
祈りなのでありまして、この光の祈り
というものは、益々これから色々な人に
覚えられていく祈りだと思いますけれども、
私共は益々謙虚になって、この祈りの
もとに、神様の愛を仰いですすんで
まいりたいと思います。
        昭和63年6月13日
           五井 昌久
posted by wadatsumi at 06:45| 祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月17日

ゆるされている生命(いのち)(前半)

 我々の生命といいますか、生命と言って
しまうと、皆さんの想像が何処へ行って
しまうか、色んな所へ行ってしまうと又
面倒なんですけれども。我々自身ですね。
この色んな性格を持ってる我々自身と
いうものを、そのままに、神様というのは
抱き取って、そして、ゆるして下さってる。

 特に我々のまわりですとね、日本など、
そんな事をすると罰が当たるよとか、
それも微風を残す為に穏やかに、そんな
事をしちゃいけないよと言うのならいい
けれども、そうじゃなくて、この頃
ずうっと世の中を見ておりますと、それは
先祖の祟りなんだとか、おまえの心がけが
悪いからだとかそういう何か、責めると
いいますかね、苛めると申しますか、
そういう形で強制しようとする。正して
いこうとする。自分の説いてる道が
一番正しいんだと言って、これを信じ
なければ駄目だという形で、我々の生命
というか心を向けさせようとする。

 だけれども、何か強制されてですね、
強いられて心をそこへ向けたとしても、
果たして人間の気持ちというものが素直に、
その人達の言う、何だか分かりません
けれど、その絶対者に向いていくか
というと、そういう風には人間の心と
いうのは造られていないんですね。

 人間の心というのは、唯ひたすらに
素直になりたいというか、神様の方へ
向いて行きたいというか、それが本来
なんですけれども、この世の中の憂さ、
辛いこと苦しいこと悲しいこと色んなこと
によって、素直になりたいけれども素直に
なれない状況というものが自分の中に生ま
れてきて、あるいはまわりに生まれてきて、
とてもじゃないけれどこの世の中は公平
だとは思えない。とてもじゃないけれど、
今自分が幸せな状態だとは言えない。と
いう風なことが色々生まれて来ますとね、
これをこちらへ向けばこうなるんだと
いうような、そういう強いられ方でその
絶対者に向けと言っても、向けられるもん
じゃないんですね。で、簡単に申し
ますとね、人間の心というものは本来自由
です。何故自由かというと、神様から
来ている我々は分生命なんですね。そして、
我々はどんな柵からも解き放たれて自由に
なりたいと思うけれども、もっともっと
我々の本体、本来の生命というものは、
何ものにも把われないものだから、この
世の中は表面的に何処かに属しているとか
誰かを養っていかなきゃいけないとか、
色々な義務というものを負ってはおります
けれど、そうじゃなくって、自分の中で
何ものも強いられるものがない、そして、
何ものからも自由である。それは何かと
いうと、元々神様そのものが、人間を
強いるとか何かをしなければ生かして
いかないとかですね、そういう類の方では
ないからなんですね。
 要するに、もう全くの無、無を突き
抜けた朗らかな心、それが神様の御心で
ありまして、その御心から分かれて来た
のが我々人間でありますから、そこで、
何をしないといけないとか、これをすると
罰が当たるとか当たらないとか、そういう
ことはないんですよね。

 つまり、冥加(みょうが)という言葉が
ありますけれども、生命冥加とか何だとか。
 冥加というのは何かというと、我々が
自覚しないところの神仏の加護なんですね。
神仏の守りなんです。つまり、自覚しない
ところのというのが、これが有り難い事
なんでしてね。
 神様というのはそうなんです。こちらが
眠ってる時でも忙しくって神様の事を
忘れている時でも、何でもずっと守ってる。
愛している。ゆるしている。神様の方
からは、一度も罰を当てようとしたことと
いうのはない訳なんです。今まで。どんな
歴史の中でも。
 じゃあ、何故戦争が起ったか、何故人間
と人間が争うのか、ね、ノアの大洪水は
先生あれは何だったんですか、色々
聞かれるでしょうけれど。それは、人間の
業というものが、何度も何度も掃除して
いかないといけないという、その節目
(ふしめ)節目というものがありまして、
歴史の中で、そして、じゃあ罰も何も
無いんだったら、何の為に人間が悩んで
苦しむのか、全くずっと平穏に平和に
やっていければいいのにと思うけれども。
つまり、人間の、何といいますかしら、
深さですね、神性。そういうものは何に
よって浄められるか高められるかというと、
人間の苦を通してのね、涙を通しての経験
によってだけ高められるんですね。

 苦労が一概に全部いいかというとそう
ではないけれども、そうじゃなくって、
それは何かというと、自己ではない他己の
生命、その人の立場その人の気持ち、
その人が何故そういうことを言ったか、
何故そんな風に怒ったか、自分に敵対
したかあるいは協力をしてくれたか、何故
あそこまで骨惜しみせずにあの人は生きる
ことが出来るんだろうかとか・・・。それは
やっぱり、相手の立場というものを
想いやるということがないと
やれないんですね。で、その想いやると
いうのは、神様でもない限り、自分の環境
以外の事、自分の価値観以外の事を分かる、
理解してね寄り添ってそして生きて祈って、
そうだなあと思いながら、共に生きる
というのはなかなか難しいんです。

 それをやろうと思うとね、やっぱり
どっかで苦しむ。例えば病気になる。父と
息子がうまいこといかないとかですね。
嫁と姑が駄目になってるとか。何か平和
じゃない、そういう状況というものを
通して、ああ本当に大変だなあー、これは
本当に一緒にやっていくということは大変
だなあー、家族というものは重たい
ものだなあーとか、色々なことを身に
染みる訳ですね。そうすると、自分の
身近でそういう風な人を見ると、ああ
あの人も大変だろうなあーと、同じような
経験を持てば、やっぱりその時に、
我しらずその心が分かって寄り添える訳
なんですね。その時に、その人の為に、
ああ本当にあの人が幸せになりますように、
天命が完うされますように、よろしく
お願いしますという風に言えるようになる。

 ところが、悲しいことに人間というのは、
自分の経験以外の事というのは、そういう
何か思い知らされる様な事がないと、他の
人の複雑な苦しい辛い気持ちというのは、
なかなか分からないように今なっている。

 で、それを曇らされてるのは、もちろん
大きく言えば、肉体の我だけれども、
その人その人の環境や、お金があれば
あるで、お金が無いなら無いで、あるにも
無いにも何か不足が出てくる、欲が出て
くる。色々なところで苦しむ。そういう
ものがある訳なんです。社会的な状況も
ある訳なんです。それは霊の生命から
いったら余分なものなんだけれども、
だけれども、余分なものだといって、
我々はそれを捨て去ることは出来ない訳
ですね。その中で生きていかなきゃ
いけないから。

 それではどうすれば良いかというと、
やはり祈りの中でね、祈りの時には、
自分が何億持ってるとか何とかいう、
それは祈りの場所じゃないですね。
祈りの時間というのは、神様と私の時間
なんですね。神様に私の心を開いて
いただく、そういう時間なんです。
 そうして、自分の本来心を解き放って
行って、そして、自分はこの世の中に
あっては、とてもじゃないけどたまらない
ような状況にあるけれども、だんだん解き
放って行くと。ああ自分の中にも朗らかな
ものがあるなあー、静かなものが
あるなあー、神様ありがとうございます、
と言える時に思える時に、神様と一致する
ことが出来る。だからそれは、
「世界人類が平和でありますように」
というあの祈り言の中に全部入ってる訳
ですね。教義にありますけれども、個人も
人類も真の救いを体得できるものである
というあの祈りですね。あの祈りを
唱える時に、我々というのは目には見え
ませんけれども、自分の中にある余分な
ものがその時パーッと掃除をされる訳
なんですね。で掃除をしたところで、
色々な経験を積んでいって、そして色々な
場所で、例えば、支部じゃなくったって
集会じゃなくったって、宗教的なものを
離れたってね。色んな人に会って色んな
立場の人の話を聞くことがあるかも
しれない。悩みを聞くことがあるかも
知れない。そういう時に、どれだけ、
祈りの場じゃない所で、そういうことを
無になって聞けるかということ、やっぱり
それが大事なんですね。
           (後半へ続く)

posted by wadatsumi at 06:43| 祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする