2017年04月22日

持ち場持ち場で 努力をすることが大事

本心というのは
私たちの
このいのちを
かがやかせている
神の
愛と
ゆるしと
智慧と
光明燦然たる
世界です
私たちの
ふるさとです

このふるさとの道を
歩いてゆくと
宇宙の
大調和
神々の
愛のひびき
宇宙神の
みこころの奥へと
たどりつきます

我々が神の
分生命(わけいのち)であるということ
一人びとりが
神のいのちのわかれ
光の末である
ということに
思いを至らせるとき
神様ありがとうございます
本心さんありがとうございます
世界人類が平和でありますように
という
祈り言に
なってゆくのであります

世界平和の祈りは
神の人類をおもう
愛念の結集であり
平和をもたらさんとされる
神のゆるしの祈(の)り言であります

何の
とらわれも
こだわりも
なく
ひとつの
ひっかかりもない
澄みにすんだところから
人類全体を
光の子として
神のいとし児として
とらえなおしを
なさろうとされる
神の約束の
祈り言であります
また
私ども
一人びとりの
神に対する感謝のひびきを
こもらせた
祈りであります

光の祈りである
この祈りをとなえるとき
人は
たちまちに
救世の大光明に
とらえられ
ふるさとである
本心
神の愛の
み心から
放射される
愛念に
いだかれてゆくのであります

祈りというものが
すべての
はじまりなのです
祈って祈って祈りぬいている生命
それが人間の本来のすがたなのです

余分なものを
脱いで脱いで
消えてゆく姿と観じて
生きてゆくとき
人は一たん
まはだかにされてしまいます
それは
世間からみれば
お金がなくなったとか
地位を失ったとか
失笑をかったり
色々なことが
起こってくるのですけれど
人間の本心本体
光明心というものは
ゆらがない
ゆらぐことのない
光のいのちを
我々は
神から
いただいているのです
これがあって
はじめて
我々は
生きてゆくことが
できるのであります

この世の中は
すべて
おもいの
あらわれの世界であります
ですから
いいことも
わるいことも
苦しいことも
辛いことも
すべてを消えてゆく姿なんだと
おもって
世界人類が平和でありますようにという
世界平和の祈りのなかに
投げ込んでしまうと
あとは
守護の神霊が
みんな
やってくれるんです

だから
何にも
心配する必要はない
ただ
祈って
その
持ち場
持ち場で
一生懸命
努力をするということが
大事なんです

そうすると
みんな
光ってきます
みんな
スッキリと神様のいのちに
つながってゆくのです
それには
すなお
ということが
一番
徹底して
神にすなおになる

あせらず
力ませず
世界平和の祈りは
そこまでみなさんを
連れてゆく祈りです

守護の神霊の加護
そのたゆまざる
休息のない
愛念というものが
なければ
私たちは
生きてはゆけません

そうして
天命というものは
これら神霊をとおしての
ふるさとである
神への感謝と
世界人類の平和を
祈る祈りのなかから
かがやかに
あらわれ出てくるものなのです

個々の天命の完うと同時に
世界人類
宇宙人類との
ともなる
いのちを
祈り
宇宙神の
愛の気をうけて
美と真と平和という
この宇宙を保つ
天命が成りますようにという
ひびきが
込められているのです


私は
はっきりと
世界平和の祈りのもつ
果てしのない
大光明のかがやきを
述べてゆこうとおもいます

この神の愛
大光明は
我々を
遠くはなれてはいない
我々一人びとりの
身内に
それは
同時に分けられ
鳴りひびいて
いるのです
神のすえである
我々の
いのちの
なかに
それは
厳然と
存在し
我々を
生かして
いるのであります

この真理を
本来霊である
人間は
知っていたのですが
肉体をまとううちに
ふるさとの
記憶が
うすれて
しまったのです

我々が
天命を完うするというのは
我々自身の天命であると同時に
宇宙神の目ざしておられる
全宇宙の完全平和を目ざすという
宇宙神御自身の
みこころが
わけられ
盛られているのです

世界平和の祈りは
この真理へと
我々を
つなぎ
むすぶ
祈りなのです

あなた方が
この祈り言を
祈るとき
あなた方自身の
本来のいのちの
かがやきが
祈りの光明とともに
照り渡ってゆくので
あります

本当に
朗らかな
いのちが
そこに
あらわれ
この地上は
平和な世界へと
展開してゆき
やがて
死なざるままに
人はみな
霊人として
宇宙の
兄弟たちと
交わり
神の
みこころにしたがって
まかせて生きてゆく
ことに
なるのであります

消えてゆく姿と世界平和の祈りの
光明
この祈りに集われた
霊人たちの
智慧は
私どもを
ゆたかに
朗らかに
導かずには
いないのであります
ともに
世界平和の祈りを
祈って
参りましょう
    平成元年12月26日
posted by wadatsumi at 09:06| 祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月21日

私は 本心の座へと歩む

本心と本心が
あいさつをかわして
光が
結ばれる
いのちと
いのちが
こもごもに
祈りを
かわして
神の
光を
あびる

私たちは
そのいのちを
本心を
この身に
おびているのだ

世界人類が平和でありますように
という
祈り言にのって
私たちは
かぎりなく
あたらしくされる

光の進軍
それは
人類の
高く
深い
進化のための
進軍である

宇宙の星々の
兄弟たちが
天使たちが
前後左右から
私たち
一人びとりのいのちを
ささえて
私たちを
宇宙神の
愛の
みふところへと
先立って
案内の
労を
執って下さるのだ

何も
わずらうことはない
何も
おそれることはない
赤児のように
純に
私たちは
私たち自身の奥にある
光を
世界平和の祈りのなかで
つよめて
ゆけば
いい

今こそ
地球は
平和に
なるべき
時が
きたのである
世界平和の祈り言が
宇宙にとよもし
我々一人びとりが
神の器として
用いられる時が
きたのである

ふんわりと
世界平和の祈りの
エレベーターにのって
光をむすび
いのちを
結んでゆこう
祈りの座
本心の座
神の愛へと
かえってゆこう

本心にかえるということは
ふるさとにかえるということです
ふるさとを
おもうことは
神を呼ぶことです


という
言葉のしたわしさ
なつかしさ
幾多の
詩人たちが
あなたへの
愛をうたった
郷愁をうたった
我しらず
人は
あなたをよび
あなたをしたう

神よ
わが愛のふるさとよ
わが愛のゆきつくところ
わがいのちの
いこうところ
私は
しずかに
本心の座へと
歩む
あなたの
愛へと
あゆむ
     平成元年12月26日
posted by wadatsumi at 23:00| 祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月20日

い の り

 祈りというのはどういうものかと
いうのは、考えれば考える程わからなく
なる。まじめな信者さんである程そういう
質問をよく受けます。 そういう人ほど
良心的で考え込んでしまって、自分が
出来ていないのに人に薦める訳には
いかないとか、共に祈るような資格は
私にはないんじゃないかとか。そうなると
ちょっとノイローゼに近い位に悩み込んで
しまっている。

 祈りというものは、神様と私の対話
なのです。と同時に、世界人類と私の祈り
でもあります。この場合の世界人類と
いうのは、地球の世界人類だけでは
なくて、宇宙全体の宇宙の星の兄弟たち
との一人一人との、その交信も
含みますね。ですから、真に広い幅に
なる訳です。そこまで考えていくと、
私共の世界人類が平和でありますように
という祈りというのは、非常に大きいし
深い。そして、自分が出来るか出来ないか
ということではなくて、もう向こうの方で
抱きとってもらってる訳なんですね。
 ですから、何も考えずに祈るというのが
一番いい訳なのです。四の五の言ってる
間は理屈なんです。祈りというのは理屈を
超えたものなんです。

 そんなこと言ったって祈れませんと
いう時は、祈れなくていいのです。集会に
行きたくないのに無理に集会に行ったり、
何か行事があるから絶対に人数がいるから
といって集めたって、それはどうにも
ならないんです。その人の気持ちが
どうにも向かないという時に、無理に
薦めたってそれは萎びるだけなんです。
 本体と肉体は違う訳だから、本体は
行きたければ、さっさと霊体が
行っちゃってる訳です。自分の肉体がどう
であれ、霊体は行って統一会に出たりなど
している訳ですから、そこまで我々の
肉体人間が神経質になることは
ないんです。

 ですから、真面目な人ほど色々色々
考えるけれども、しかし、そうじゃなくて、
もう一回、子供みたいに無邪気になって、
世界人類が平和でありますように
という風に祈る。祈って任せる。そこ
からでないと我々の道というのは開いて
いかない。そういう風に思います。
       昭和63年6月13日(月)
           五井 昌久
posted by wadatsumi at 06:39| 祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする